2008年11月19日

寝る子は育つ

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昨夜は久しぶりに22時前に就寝し、しっかりと鋭気を養ったと思う。寝すぎ?よく、そんな早くから寝れるねという声が聞こえてきそうですが、ある意味、眠い時に寝れるって幸せですよね。

50代の私ですから余り関係ないのでしょうが、寝る子は育つというじゃないですか。睡眠をとることにより、生命は維持されるし、記憶、学習能力、創造性、意欲や心の安定にもつながる訳ですから寝不足の無いよう心がけたいと思う。

多くの研究論文の結果をまとめて、公開しているアメリカの睡眠財団によると、以下が適正な睡眠時間だという。

新生児(1~2ヶ月)・・・・・・10.5〜18時間

乳児(3~11ヶ月)・・・・・・9~12時間(これに加えて1~4回の30分〜2時間の昼寝)

幼児(1~3歳)・・・・・・・・12~14時間

学童前期(3~5歳)・・・・・・・・11~13時間

学童期(6~12歳)・・・・・・・・10〜11時間

ティーンエージャー(11~17歳)・・8.5〜9.25時間

成人及び高齢者・・・・・・・・・・・7〜9時間

個人差もありますが、一つの目安にしていただきたいと思う。意外と長い時間が理想とされているんですね。日本は勤勉な人が多く、伝統的に睡眠を軽視する傾向があるじゃないですか。寝る時間を割いてまで頑張ることを美徳とする風潮も根強いですから。“ナポレオンだって3時間しか寝なかったんだから、大丈夫だよ”って。しかし、これは科学的には間違いだという。

昔と違って朝起きて、昼間に活動して夜は床に就くとばかりには今の現代はいかない人も多いのだろう。当然、生活のリズムも他の家族とは違ってくるし、難しい部分もあろうかと思う。その中で工夫をしながら睡眠時間を確保することが健康を維持する根本かと思う。

若いときの私もそうであったが、夜、寝不足が多いと朝、起きるのがやっと。朝食も摂らずに出勤。これが後々、身体にも悪影響を及ぼす。親の影響もあるのだろうが、生活習慣病になったのはこのような生活リズムが原因なのかもしれない。

子どもの場合、朝寝坊して食事もしないで学校に行くことが習慣になってしまうと、脳がしっかり働かず、集中力や注意力の低下をもたらし、学力にも影響するという。

大人だって健康だけでなく、仕事のやる気にも影響ありますよね?この年になって思うのですが(遅い?)、朝が一番大事なんですね。朝の気力の有無で一日が違ってくる。心と身体のバランスが崩れてくるとリズムが合わなくなってくる。朝のリフレッシュが本当に大事だと思う。

どうですか?皆さんは十分に睡眠とっていますか?「自分は若いから大丈夫!」と思われますか?

そうだとしたら、「若者の慢」かも知れないですよ。そう、慢心なんです。他と比べて自分は違うんだと。病人をみれば、“自分は健康だ”と年寄りをみれば“自分はまだ若いんだ”と。

私も少し(?)前までは、青春を謳歌してましたが、時は平等に過ぎているんですね。気がついたら孫もいる“ジィジィ”なんですよ。どうか今、若者の人も20年後の自分を考えてリズム正しく睡眠はとって下さいね。今日は大きなおせっかいになってしまいました。
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2008年11月06日

日本人の”個性観”

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アメリカではオバマ氏が黒人初の大統領に選ばれましたね。2004年の上院選で初当選した1回生議員で、上院議員から直接大統領に選出されたのは1960年のジョン・F・ケネディ以来なんですね。47歳という若さですから、おおいにリーダーシップを発揮してもらいたいものです。黒人初ですから違う意味で“個性”を前面に出して変革をしていただきたい。

アメリカらしいと思いません?日本だったら当選1回の国会議員が総理になるなんてことはありませんよね。「出る杭は打たれる」じゃないですが、一般的に日本は「個性的だといじめられる」、みんなと同じような格好をして、みんなと同じ物を持っていないと「あいつは違う、変だ」とかと言われる傾向性があると思うのは私一人じゃないと思いますが。

一方で「個性的」って、どんな人?と聞くと答えはさまざまでしょうが、「人と違った格好が堂々と出来る人」「面白い人。人と違うことをする人」「周りの人の意見に流されないで、自分らしさを知っている人」「個性とは、外見ではなく、その人の内面からにじみでてくるもの」等々、イメージとしては良いことだと考えているように思う。

しかし、現実は学校、職場でもこの「個性」を出すと異端児扱いをされることがあまりにも多くありませんか?だから、自分の個性を表にださず「みんなと同じように」してしまう。

大人も子どももここから考え方を改めなくてはいけない時代になっているのではないだろうか?しかし、国民性ゆえに根が深い。日本人は、昔から、画一性を重んじてきた。よい、悪いはともかく西洋とは
違う、個性観が全然、違う。個性を埋没させる日本の国民性が、時代の進歩を妨げたとも言われているぐらいですから。

個性を出せずにいたらどうなる?“自分を殺す”“我慢する”“病気になる”のではないだろうか。

ある識者は「個性とは、この世界で、その人しか持っていない宝の一品である。まったく同じ顔の人はいないように、人それぞれ個性が違う。自分にしかない宝をもっている。自分にしかできない使命をもっている。鳥には鳥の個性があり、犬には犬の個性があり、ライオンにはライオンの個性がある。同じように、それぞれの人に、それぞれの性格があり、それぞれの個性がある。個性があるから、人格はできる。個性があるから、その人でなくてはならない生き方があり、人生があり、使命がある。個性とは、他の人がもたない、自分なりの独特の特性であり、本能的ににじみ出てくるものでしょう」と。


前にも書きましたがスマップの歌の歌詞です。

花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?
そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい

「桜」には「桜」の、「梅」には「梅」のそれぞれの個性があり、役割があり、意味がある。それを、梅が桜に憧れて、桜になろうとしてもなれないじゃないですか。自分の花を咲かせることに一生懸命になればいいんですね。それが自身の幸福につながっていく。

目はどこに付いてます?外に向かって付いてますよね。だから、どうしても他人と比較して一喜一憂してしまうことが多い。しかし、そういう「他人志向」「他人本位」では自分を見失い、行き詰ってしまうことになる。

ならばどうしたらいいのか?「自分自身に生きる」が大事になってくる。

夏目漱石も「自分さがし」の旅をさまよったそうだ。彼はイギリス文学を志し、ロンドンへ留学するが、文明のギャップに苦しみ、劣等感に苦しみ、神経衰弱になる。悩みきった果てに彼は「文学とは何か。その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、自分を救う道はない。“他人本位”だからダメだったんだ。自分自身に生きよう」と。

さぁ、また、元気だして、“自分さがし”の旅を開始しましょうね。周りと共生しながら・・・。

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2008年11月03日

宇宙即我

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11月に入りすでに3日目、今月始めての記事を書きます。先月末に我が家の長男の嫁の祖父が亡くなり、本日が通夜式なのですが私は仕事で焼香出来ないことが分かっていましたので一昨日、カミさんと長男、嫁、孫と線香をあげに東京の東村山まで行ってきました。

安置されている式場に着き、皆で線香をあげさせていただいた際に、嫁さんはおじいちゃん子だったらしく涙を流していました。普段の生活の中では人前で涙することはあまりありませんよね。その涙を見た孫は「ママ、どうして泣いてるの?」と。3歳5ヶ月の女の子には死んでしまったという言葉は話せるようになってはいるものの「死ぬ」ことの意味は勿論わかっていません。

私たち大人も「死」ということにあまりふれないように生活していることが多いのかもしれない。先日、私の顔をブログに出しましたが(3度)、一体、何をしてる人物なのか?敢えて公表する必要はないのだろうが簡単に触れておきたい。

私のブログを読んでいただくと分かるでしょうが、人生のドラマとか生き方とか生死に関する記事が多いと思いません?仕事として葬儀式場にしょっちゅう行っているのです。葬儀屋さんではありませんよ。某百貨店、○○屋の販売委託契約店として返礼品の納入、引き取り業務をしてるんです。したがって、いつも人の「死」と関わっている。
どのような顔をして、棺に収まっているのかも拝見させていただいております。人生の最終を迎えた“顔”、そして送り出す親族の表情等も。

そして亡くなる方の年齢もさまざま、人生を全うされた年齢の方や、これからなのにという年齢の方もおります。その方の寿命とはいえあまりにも早い旅立ち。「死んだらどうなるんだろう」「どこへ行くんだろう」と私の生活の一部として、他の方より「死」「死にざま」「生きざま」という問題が当たり前に思えるのです。したがって、そのような内容の記事が多くなるのでしょう。

人は亡くなると火葬され、骨壷の中に納められた後、墓に入ります。生きていたときの“こころ”は何処に行くのでしょう?肉体と一緒に朽ちてしまうのか?いや、“我”という生命は宇宙に帰ると言われている。場所は?私にも分からないが読んだ書物にそう書いてありました。「宇宙と自分」は同じだと。

大海(宇宙に例えて)に波がありますね。波しぶきが沢山あるじゃないですか、その波しぶきの1粒、1粒が私たちの人生と例えてみて、死んだら波が大海に収まるように溶け込んでいく。この大空にも目には見えないけれども沢山の電波がありますよね。見えないから無いんじゃないですよね。スイッチを入れ周波数を合わせれば受信できるように、宇宙に溶け込んだ個々の生命は“自分に合った”周波数をもった夫婦のもとに再び“誕生”するのだと。しかもその生命は“過去”からの延長であるとも言われている。

私たちの1日で言えば、夢をみながら寝て(死の状態)翌朝目が覚める(生の状態)。新しい1日の始まりであるが、昨日の自分の延長である。人により楽しい夢なのか、苦しい夢なのかはその人自身しか分からない。生きてるときには欺くことも、誤魔化すこともできるし、それによって自分がのし上がっていくことも出来るかもしれない。しかし、最後に棺に収まった時の姿は誤魔化すことができない。私も数多くの方を拝見しました。すやすや寝ているようで、今にも起きだしそうに収まっている方、お別れの際に親族でさえ顔をみせられないように収まっている方さまざまです。

こう考えると人生苦労しなければいけないのは「運命」ではなく「宿命」と捉え、自分の借金は“自分で返す”と決め前向きに生きたほうが価値的ではないだろうか。

親子や夫婦の問題で悩んでいる人も多いかもしれないが、永遠の生命からみたら、ほんの一瞬なんですって。どれぐらいかって?親子の縁は川があってこちらの岸からあちらの岸に行くぐらい。夫婦は街で出合って用をたすぐらい。長いようですがこれ程なんですから大らかになりましょうね。”自分の変革”が1番大事。

東村山の“おおじいちゃん”のご冥福を祈りつつ・・・

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2008年10月30日

日本シリーズ勝つのはどっち

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今年のプロ野球もあとは巨人―西武の日本シリーズをもって終了となる。果たしてどちらに軍配があがるのだろうか?ともにチーム総得点と総本塁打数がリーグトップ同士の戦いなので見どころも多いシリーズになると思う。巨人も交流戦の時よりも強くなっているので、西武は若手中心の投手が抑えるとそのまま勢いに乗っていくのかもしれない。いずれにしても投手陣の出来いかんではないだろうか。

今年のシーズンを振り返って思うのは、前半あれだけ2位以下を離していた阪神が最終盤に失速し優勝を何故、逃したのだろうか?その責任をとって?岡田監督は辞任。決して監督だけのせいではないと思う。気持ちに油断があったかはわからない。ただでさえ力がある巨人が気持ちの上で「団結」したのでは太刀打ちできない。終盤の巨人戦に勝てなかったところに阪神の限界があったのか。最後は“執念”の差か。

皆さん忙しいからもう「星野ジャパン」のことは忘れているのでしょうね。あれほど優勝候補と言われながら、韓国を筆頭にキューバ、アメリカ相手に0勝5敗と惨敗して、4位という不本意な成績に終わった「星野ジャパン」の“敗北の因”はどこにあったのだろうか?

星野監督の采配についてはいろいろ言われている。本調子から程遠かった川上を起用し続けたのは、明治大学の後輩で自分の中日監督時代によく働いてくれたから。その川上が、銅メダルのかかったアメリカ戦で致命的な4失点を喫した場面は、星野監督の選手起用が情に過ぎたことを象徴いてはいなかったか。

抑えの岩瀬も同じである。明らかに不調だったにもかかわらず彼を重用した理由も、中日監督だった自分を男にしてくれたからである。

その岩瀬を韓国は徹底的に研究し尽くしていたという。左打者の内角を突く球がないことに注目し、どんどん踏み込んで打たせ、対岩瀬は8打数4安打と攻略してしまった。

何故、今、調子のいい選手を起用できなかったのだろうか?そればかりは星野さんでなければ分からないことなんだ。勝つための何かが欠けていたんだろうな。

一方、優勝した韓国は、メダルを獲得すれば兵役免除というニンジンに加え、国内リーグ戦のマウンドの高さや土質の硬さ、使用球、ストライクゾーンにいたるまで国際試合仕様にしたという。しかし、それ以上に大きかった要因は、五輪期間中の国内リーグ戦を中断したことで、現役監督が存分に采配を振るえた点であった。金監督は・斗山ベアーズを率いて優勝争いの真っ只中にいて、勝負勘は研ぎ澄まされていた。また、金監督はヘッドコーチこそ斗山ベアーズの腹心を連れてきたが、あとは他球団のコーチたちを登用した。決して“お友達内閣”ではなかったのだ。

星野ジャパンは田淵幸一、山本浩二両コーチの起用を、「友人だからいいたいことを言い合えるんだ」と言っていましたが、このお友達内閣に緊張感は欠けていなかったのだろうか?

例を挙げると、予選のアメリカ戦の6回、田中選手はすでに3アウトを取っていたにもかかわらず、次の打者に初球を投じてしまい、スタンドや記者席から「チェンジ、チェンジ、4アウト」の声がかかるまで監督、コーチ誰一人気付かなかったというお粗末。

田淵コーチにいたっては、「低めは捨てろ、高めには手を出すな」なんていう。あとはどこですか?打ってくださいと真ん中にくる球を待つのでしょうか?国際試合でそんなところに投げる投手はいませんね。そんなことだから、ナインからは失笑を買った挙句、最後は無視されていたそうです。

監督、コーチがそうであっても選手が団結できればよかったのだが、それも叶わずじまい。名キャプテンといわれた宮本選手も初戦のキューバ戦で2併殺をくらって以後、ベンチから出ることはなくなった。
やはり、試合に出て、率先垂範のプレーをすることができなければ、アドバイスも遠慮がちにもなるだろうし、他のナインも耳を貸さなくなるのだろう。

勝敗を分けるのは単に技術だけではなく、“執念”がものをいうのだ。巨人と西武どちらが“執念”をもっているのだろうか、楽しみでもある。

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2008年10月25日

宗教の役割

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今、読売新聞で日本の知力で、「宗教を考える」がシリーズで掲載されています。今日の記事がお寺についてだったので記事に書いてみたいと思いました。

「生きている人の生老病死の現場で役割を果たすことこそ僧侶の本来の役割だったはずだが、今、一般の人から見たら、坊さんはただお葬式をする人だ」とありました。

皆さんはどう思われますか?

葬儀=僧侶の読経とお布施 一つの職業になっているような気がしませんか?葬儀に僧侶が来てお経を唱え、戒名をもらうようになったのはいつ頃からなんだろうか?

江戸時代、お寺はコミュニティーの中核だった。日本宗教史が専門の圭室氏によると、今あるお寺の数は7万5千ほどだが、その7割以上は1640年代以降、一斉に建立された。

何故か。島原の乱(1637〜38年)の後、戸籍を作るのにキリシタンでないことを証明する寺の証文が必要になり、今でいえは区役所の役割をしながら各地に配置されたのである。

キリシタン狩りを目的としつつ、あなたは仏教徒ですねとついては葬儀に際してはお経を唱えてあげよう、戒名を授けてあげようと布施をもらうようになったのもこの頃だと言われている。お寺が国の行政機関になり檀家制度も生まれた。

余談ですが、戒名ってなんでしょう?最近の葬儀では僧侶を呼ばずに無宗派の音楽葬で執り行う方もおられるようですが、もちろん戒名もない。私も賛成です。「戒名」というのは本来、出家してその宗派の戒律を守りますということでもらうものだったんです。出家僧が修行をしている「生きてる時」であり、「死後」にもらうものではないんです。お釈迦さんの時代も、聖徳太子の時代もなかったんです。この江戸時代の「檀家制度」から生まれたものなんですから。

寺が行政機関の役割をしながら後に、寺子屋や集会所として使われ、コミュニティーセンター機能を担うようにもなったとのこと。しかしこのような関係こそが宗教心の形骸化をもたらしたと読売新聞に書いてある。

本来、宗教とは“迷える衆生”を教え導き、そして「その宗派」もしくは「その指導者」に救われた衆生が感謝の気持ちを“布施”というかたちで表わすものではないのだろうか?なにも葬儀にお経を読んでもらって渡すものではないというのは変ですか?

明治憲法で僧侶に対する法律が変わりましたね。肉や魚食べてもOK、妻帯もOKと。東南アジアの仏教僧侶からするととてもおかしなことと受け止められているようです。いいか悪いかは分かりません。しかし、妻帯して子孫が出来れば守ろうとするじゃないですか。お金も必要以上かかる。したがって、人を教化するより“葬式仏教”に走ったほうが“すべてに楽”になる。

今、日本に宗教法人ってどれ位あると思います?記憶が正しければ小さなところも含めて18万団体以上です。凄いでしょ。いまや生活に密着してない宗教なんですが、組織としてはこんなにあるんです。

履歴書に血液型を書く欄があるとのことですが、あなたの宗教は何ですかと書く欄はありませんね。外国ではあるかどうかは分かりませんが面接の際に必ず“宗教”はと聞かれるそうです。何故か?“宗教”や“哲学”をもってない人はあまり信用されないそうです。

日本人の宗教心はどうでしょう。正月に神社・仏閣に行き祈念する。結婚式はキリスト式。家に入れば神棚と仏壇が同居。苦しい時の神頼みと、神も仏も一緒くた。

どうだろうか、私たちも少しは仏教のことに関心をもってもいいのかもしれない。お釈迦様の「法華経」は単なるお経ではなく“人間とは素晴らしい”ということを説いているのだそうな。

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2008年10月21日

自分を見つめてみよう

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人間ってやはり複雑な生き物なんでしょうね。先日、デートDVについて記事を書きましてコメントをいただきました。

知らなかった方や経験してないのでなんとも言えないという方も。そうです、このようなことは経験しないほうがいいですよね。これも一種の心の病なのではないかと言われた方もおります。

福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」と学問のすすめで言っていますが、彼は宗教に熱心ではなかったのでここで言う天とは「神」ではなく「自然の法則」のことを言われている。

同じ人間として生まれながら「差別」されるのはどうしてなんだろうって思いませんか。デートDVは男女に起こる暴力や支配は一種の権力じゃないですか。本能的に自分より相手は弱いと見極めていき行動に移す。決して強いものには横暴にはならない。

こういう方を「修羅」というんですね。弱いものの前では自分を大きく見せる。自分より強いものが現れると媚びへつらうという心の傾向性。いません?身近に。人によって態度を変える人。そして「勝他の念」が強いんです。常に他人を意識し、それよりも勝とうと執念を燃やす。権力があれば、相手に対しさまざまな手をつかい貶め、支配しようとする。

ですからDVというのは男女間だけではないんですね。

肩書きではなく心の部分で権力者が上で、国民が下なんて考えているからいつまでたっても良くならないんでしょう。経営者が上で社員は下?教授が上で生徒は下?親が上で子どもは下なんて考え方を改め「人格」を尊重しましょうよ。

先ほど同じ人間としてと言いましたが、肉体があり、心があり、考えることも話すことも出来る点では「同じ」じゃないですか。でも、私はそれぞれが「心の傾向性」の違いをすでにもって生まれてくると思うのです。

まず、人間は生まれて死んだら終わりと考えたら理解できないが、夜寝て(死)朝、疲れをとり目が覚める(生)ように生と死を繰り返す。朝起きたときにはもちろん自分自身というように“自我”は続いていく。今、ここにいる人類は「過去」の自分の心の傾向性を引き継ぎながら生きている。これが「個性」なんでしょうが。果たしていい個性なのか?悪い個性なのか?

以前、心の通帳とか、自業自得のことは書かせていただきましたが、自分の思ったことの善悪や行為の善悪は自分自身に蓄積されて最終的にプラスの業とマイナスの業どちらが多かったかで来世の自分が決定するといわれたらどうでしょう?

お金に譬えるのはどうかと思いますが、借金したら返さなくてはなりませんね、すべて返済するには大変な労力(苦労)を必要とします。逆に通帳に残高があればゆとり(徳)がある。お金を「こころ」に置き換えてみてください。やはり今の自分は”因果の法則”であり、他人のせいではなく自業自得なんですね。

人生においてさまざまなことを経験し、何をやってもうまくいかない。これも「運命」なんだと諦め自暴自棄になることもあるでしょう。でも、これも自分の借金なんだと自覚し、苦労は半端じゃなくても返済(善の行為)することに専念すればいつかはゼロになるんですから。できれば今世でプラスにしたいですよね。そして人生捨てたもんじゃないって感じて逝きたいじゃないですか。

何かに躓いて転んだら、自分自身で起き上がることなんです。それを何かのせいにしても始まらないんです。発想の転換をして“自分の不注意だった。次は気をつけよう”と。プラス思考でいきましょう。

ある人が事業に失敗して、自殺を考えていたところ何故かわかりませんがベートーベンの“歓喜の歌”を聞きもう一度やり直してみるかと踏みとどまったと聞いたことがあります。何に“縁”するかによって人生は大きく変わるんですね。であるなら、悪い縁は避け、良い縁と一つでも多く出会いたいものだ。

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2008年10月19日

デートDVって何?

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DV(ドメスティック・バイオレンス)は夫や恋人などパートナーから受ける暴力ですでに皆さんご存知のことと思いますが、「デートDV」って知っていましたか?こちらは、未婚の交際相手から受ける暴力を指す言葉として、数年前から使われるようになったそうです。

2001年に「DV防止法(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律)」が施行され、被害者を支援する環境は整備されつつあるが、この防止法は婚姻関係にあるカップルのみであり、事実婚や元夫婦も含まれるのだが、結婚以前の恋人関係や同性愛カップルなどは含まれないんです。

ところが実際には、婚姻関係の有無にかかわらずカップル間には暴力行為が起こっている。そこで、配偶者間のほかにもDVが存在することをアピールするために、デートDVという言葉が生まれたそうだ。

私はあまりテレビを見ないので知らなかったのですが、フジテレビ系で放映されていた「ラスト・フレンド」はデートDVを一つのテーマにしてたんですね。

DV防止のために活動を続ける団体によると、DVにはいくつかあって、「言葉での暴力」「身体的暴力」「精神的暴力」「性的な暴力」「経済的締めつけ」「子どもを使った暴力」があります。ここで、少し具体例を挙げてみます。

・ いつもバカにする。

・ 友達と遊びに行く予定だったが、「俺よりも友達をとるのか!」と怒鳴られて、中止にさせられた。

・ 異性の友達と会話しただけで怒鳴られ、殴打された。

・ 携帯電話のアドレス帳から異性の連絡先を消去された。

・ 「起きた?」から始まり、「いま何してる?」「何時に帰るの?」「これから何するの?」と一日中メールを送りつけられる。返信しないと「なんで返信しないんだ!」と怒鳴られる。

・ 「バカ!!!!!!!!!!!」と、メールでビックリマークを乱用する。

・ 携帯電話のGPS機能を使って、常に居場所を把握されている。

・ 「なぜ、そんなに怒るの?」と聞くと、「そんなこともわからないのか!自分で考えろ!バカ!」と怒鳴る。

ほんの一例で、まだまだあるのですが、相手の心をもてあそび、自尊心を破壊することで、加害者は相手を支配し、コントロールできるように仕向けるようだ。たとえ、身体的な暴力がなかったとしても、これらはれっきとしたDVである。

デートDVが「DV防止法」の対象から外れた理由として、結婚以前であれば、カップルの関係も「嫌なら逃げればいい、別れればいい」と推測されたからだというが、被害者はあまり逃げないでいて、これらの暴力の問題は深刻化しているようである。

ひどい暴力を受けながら、どうして被害者は逃げないのだろうか?

一因として、「恋愛幻想にすっぽりはまってしまう」からだという。嫉妬するのも、束縛するのも自分を愛してるからだと解釈してしまう“恋愛幻想”が冷静な判断を狂わせてしまうことと、DV加害者の多くが、暴力をふるったあとに豹変したようにやさしくなるため、幻想から抜け出せないといわれています。

また、被害者は「結婚すればやさしくなるはず」とか「子どもができればやさしくなるはず」と期待し、我慢をし続けてしまうらしい。

自分のパートナーに危険な兆候を感じたならば、早めに相手と距離をとることが賢明という。デートDVが「DV防止法」対象外である現在、被害者自らが対策を講じる以外に被害を止める方法がないのです。

もし、身近に被害を受けている方がいたら、内閣府男女共同参画課のホームページに相談機関の一覧が掲載されているので教えてあげて下さいね。


「内閣府男女共同参画課」 http://www.gender.go.jp/


最後に、DVの大半は男性から女性に対するものですが、強い女性から弱い男性に対するものも存在しますから。

あなたは大丈夫ですか?

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2008年10月09日

ガンジーに学ぼう

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ガンジー.bmpガンジーが暗殺されてからすでに60年経つのですね。にもかかわらずニューデリーの国立ガンジー博物館で「ガンジー展」がーわが人生が、わがメッセージーと題して今月から明年の9月まで開催されているそうです。インドは遠いから私も行かれませんが、旅行でニューデリーへ行く予定のあるかたは立ち寄られたらいかがでしょうか。

何故ガンジーなのか?彼は不服従運動や非暴力運動を行った人として有名である。

非暴力について彼の言葉を以下に引用したい。

•私は失望したとき、歴史全体を通していつも真理と愛が勝利をしたことを思い出す。暴君や殺戮者はそのときには無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。どんなときも、私はそれを思うのだ。

•狂気染みた破壊が、全体主義の名のもとで行われるか、自由と民主主義の聖なる名のもので行われるかということが、死にゆく人々や孤児や浮浪者に対して、一体何の違いをもたらすのであろうか。

「目には目を」は全世界を盲目にしているのだ。

私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない


また、ある時ヒトラーがイギリス本土に侵入しょうとしたとき、ガンジーは英国民に対し「持っている武器を下において欲しい。武器はあなた方を、ないしは人類を、救う役には立たないのだから」と述べている。

20世紀は「戦争の世紀」と言われ、今も世界の各地で紛争は起きている。いかなる「正義」「大義」を掲げようと犠牲になるのは罪のない民衆ではないか。21世紀は「平和の世紀」にしなければいけないと世界の識者は語っている。その意味でもガンジーの精神を我々も学び、実践して次の世代に伝えていかなければいけないと思う。

以前、確かロバート・キャパの写真展だったと思うが、そのなかに不正確かもしれませんが、こんな言葉がありました。

「戦争を起こしたくなかったら、人間が変わらなくてはいけない。
人間を変えたければ、人間の心を変えなければいけない。」



やはり、行き着くところは「こころ」なんですね。


戦時中の話です。ある兵士が女性と連れ立って、やってきた。たまたま、そこに上官がいた。兵士が上官とすれ違った時、上官は「貴様は、ちゃんと敬礼しなかった」と言って兵士をめちゃめちゃに殴ったり、蹴ったりした。本当は、きちんと敬礼したのだろうが、上官には女性連れの兵士に「焼きもち」があった。そこで彼女の前で、さんざん殴った。それも大勢の人の見てるなかで。当然、兵士は反抗するわけにもいかない。

私は戦争には行ってないので、軍隊のことはあまり知りませんが、こんな光景は対中国、韓国に行ってもやってたんですね。

「狭い心」「いばる心」「嫉妬心」「自分本位」このような低次元の感情が人権を壊し、その延長に「犯罪」や「戦争」も起きるとしたら、どうです?他人事ではないですよね。問題や事件は、自分の身近に起きているんです。

「いじめ」とは「小さな戦争」とも言われていますから・・・

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2008年10月08日

こころの数はいくつ?

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今日は「こころ」について書いていこうと思う。昔の人は心は心臓にあると思っていたらしい。皆さんはどこにあると思います?

さまざまな出来事に縁して起こる喜怒哀楽。以前、心の中の引き出しはいくつ位あると思いますかとブログに書きましたが、よく女心と秋の空といいますが、それは女心が秋の天候のようにころころ変わりやすいことを言われているのでしょう。

女心だけじゃないんです。男女平等だから。人類平等だから。

天台大師という人が展開した「一念三千」なんですが、一人の心(生命)は三千あると言われている。そんなに自分はないという方もおられるかも知れませんがね。

孫悟空っているじゃないですか。彼はお釈迦さんに対し、如意棒をもって「俺は何処へでもいけるし、したいことをする。あなたとは違う」と自由奔放に行動していくんですよね。結果どうなったか?彼はお釈迦さんの手のひらの中でしか行動してなかったという。

これは何を意味してるんだろうか?人間は千差万別でいろいろな人がいます。顔かたちも、性格も違う。進む道も違う。しかし、宇宙の法則からは誰人といえども外れることはないということなんでしょう。

世間のルールや国の法律を守らなくても罰から逃れることは出来ますよね。ところが宇宙の法則に反したらどうなるのだろう?天の神が裁きをするのだろうか?そうではなく自業自得なんですね。

罰があたるといいますが、糞があたるとは言わない。糞は出るもんだ(汚い例えですいません)と言った人がいますが、私もその通りだと思います。良くも悪くも自分の行為の結果は自分で得る(報いを受ける)ととらえたほうが道理に適っていると思いません?


宇宙の法則から逃れることは出来ない


簡単に三千を説明すると、まず10段階の境界に別れています。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏で10の境界。そして、10の境界の中にも10同じく地獄から仏まである。これで100になります。(例えば極悪人の心にもわが子を慈しむ“菩薩”の心があるような)

100にそれぞれ十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟)があって千になりますね。これに3つの世間があるので三千になるということです。

簡単すぎて分かりにくいですね。

つまりこころの引き出しは三千あるということなんです。それが“縁”によって一瞬、一瞬引き出しから出しては閉まっての繰り返しなんです。私は絶対違うと言われたら孫悟空と同じになってしまいますよ。

こころってすごいじゃないですか。でも、こころって何処にあるんでしょう?外科医によって臓器は摘出することはできますが、こころは出来ませんよね。形は、色は、大きさは、長さは?分かりませんね。

心と身体の関係はお互いに影響しあっています。比例しますよね、心が病んでいるのに笑顔で颯爽としているなんてことはない。
逆に心がめげず、前向きに希望をもって生きてる人は輝いていける。

その一瞬、一瞬の思い、行動が自分の“蔵”に蓄積され、自分自身を形成していくことになり、“個性”となっていくんでしょうね。輪廻転生といわれますが、その“個性”“我”は死後も続いていく。

ある方が、心と身体の関係をエモン掛け(こころ)と洋服(身体)に譬えていました。洋服が落ちても(死んで肉体が無くなっても)、エモン掛け(こころ)は残る。と

いかがでしょうか?そうであるならば、生きてるうちに自分の罪滅ぼしをしとかないと大変なことになってしまいます。

非常に難しいテーマなのでまとまっていないかも知れません。また勉強してお伝えします。

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posted by Koumei at 12:59| Comment(1) | TrackBack(0) | 日常の出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月03日

エコはみんなの問題

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集中豪雨、大都市を襲う台風による洪水と高潮・・・。
このまま地球温暖化が進むと、2030年の日本では52万人が浸水、その被害額は年間1兆円増加するという、新たな予測が発表されました。


22年後・・・。私はまだいるかもしれない・・・


地球は確実に暖かくなっている。ここ100年間で、地球の平均気温は摂氏1℃ほど上昇したといわれている。と聞くと、「1℃程度なら、たいしたことではないのでは」と思いません?

ところが、この1℃の上昇が、大変なことらしい。

地球の、ここ100万年という歴史は、氷河期と間氷期との数万年ごとの繰り返しで、今現在は間氷期にあたっているそうだ。この氷河期と間氷期との温度差はどれぐらいかというと、摂氏6~7℃なのである。

悠久の歴史のなかで、何万年もの時間をかけて気温は1℃上がったり、下がったりしてきたのだが。ここ100年で摂氏1℃の上昇というのは驚異的なスピードだという。

当たり前のように、普通に生活をしてるつもりなのだが、私たちはとてつもない環境変化の中でいることを知らなくてはいけない。

1℃の上昇でも農作物に影響を及ぼす。因みに3℃以上の上昇ではあらゆる作物が減産に転じると予測されている。マラリアの危険性は1億人も増加するそうだ。

また、海面上昇も起こってくる。ここ100年で上昇は20pといわれ、このペースで上昇していくと世界の海岸部の地形は侵食され、南の島国には海面下に沈んでしまうところも出てくるとのこと。しかも、ホッキョクグマは今世紀半ばで、3分の2が死滅してしまうそうだ。

こうした地球温暖化を引き起こしている原因は、二酸化炭素、つまりCO2である。しかし、もしも地球に大気がなかったなら、地表はマイナス18~19℃になってしまう。昼間、地球に届いた太陽エネルギーが、夜になるとすべて宇宙に放出されてしまうからだ。昼夜ともに平均15℃程度を保っていられるのは、大気の中に380ppm含まれているCO2おかげでなのである。

問題なのは、このCO2の比率が異常に高まっていることなんですね。

今現在の380ppmより100ppmほど増えて、480ppmになったときが大問題といわれている。そして、いまのペースでCO2が増えつづけると、480ppmラインを超えるのは2050年ごろだろうと考えられている。


あと40年後・・・ 多分私はいないだろう・・・


少なくとも私の呼吸から出るCO2はなくなる。そうじゃない。人間の出すCO2なんて全体のなかの微々たるもの。やはり発電所。電気の量をなるべく減らすこと。前にも書いた、ゴミを減らせば焼却でも減らせる。

例えばレジ袋をマイバッグにするとするでしょ。毎日として1年間で365枚。100万人が実行すれば年間3億6500枚ととてつもない枚数である。誰かがやればいいんだではなく、まず自分から始めようではないか。

電気の使用量を減らすには、私のパソコン使用時間も考えなくてはならないのか。でも、慣れてくればもう少し時間は短縮されてくると思うし、努力をしましょう。

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posted by Koumei at 16:23| Comment(3) | TrackBack(0) | 日常の出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする



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