2008年10月07日

三国志ー孔明の将軍学ー

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ある識者が三国志には「覇道」と「王道」の戦いが描かれてると言われた。

「覇道」はいわば権力によって民衆に君臨するいき方である。それに対して「王道」は人間主義の力によって民衆を守り、戦っていくいき方あると話されている。

猛威をふるう南蛮の王、孟獲を捕らえるのは簡単だったがそれでは心からの心服には至らないと見た孔明は「心を攻める」戦いをすることは以前のブログにも書いてありますので読んでくださいね。

孔明が「私は7たび捕らえて、7たび放した。余人に代えられぬ、南王は孟獲だ。天子の願いに応え、民百姓を慈しみ永遠の平安を築くがよい」と言われた孟獲は心血を注いで南中を治めることを誓うのである。

この一言だけでも孔明のいき方が「王道」を貫いたことが分かるのではないだろうか。あなたの主人(リーダー)はどちらでしょうか?

以前、私が読んで感銘し、ノートに書き写した“孔明の将軍学”をお伝えします。

@「人材の登用」
「人材を推挙するほど忠義で利益になることはない」と孔明は述べている。彼は身分の序列などにとらわれずに力ある人間、優れた人間を抜擢し、適材適所に配置していった。また、自分の好き嫌いで人を判断するのではなく、正しく人物を評価することを訴えている。

A「団結の重視」
孔明は戦いにあたり、全軍の心を一つに団結させるべきだと論じている。また、団結を乱す輩は厳正に処罰した。(泣いて馬謖を斬ったのも一例ではないだろうか)

B「情報の収集」
人々からの報告を大切にするとともに建設的な意見を出すよう、自ら人々に呼びかけている。傲慢にならず、油断せず、多くの人の意見を謙虚に聞いた。そして情報の真偽についても冷静に見極めていった。また「味方をつくった」ことである。周辺の少数民族とも積極的に連帯を結んだ。無駄な争いはしない。むやみに敵を増やすようなことはしない。これが彼の作戦の一つであった。 

孔明のリーダーとして高く評価される点は「号令がはっきりしていた」“これをやろう”と、戦いのホシを明快に示した。さらに孔明は「自ら先頭に立って働き、全責任を負った」。

「情けに負けて無能な者を登用し、街亭を失ったのはすべてこの孔明が罪だ。国を治める者はすべからく自らを律し、遵法に努めてこそ信が得られる。この敗戦の責は私にある。私を罰せねば国法が乱れるもとになろう」と馬謖を斬った際に、孔明は自分の位を辞職する旨を伝えている。決して自身の保身のために考えるリーダーではなかった。

ある識者は「自分は楽をして、人にばかりやらせるのは、リーダー失格である。一番の組織悪である。自ら先頭に立ち、自分が道を開いて、その上で指揮をとるのである」と言われている。

自分は号令だけ、部下にやらせて手柄は自分。失敗は部下に責任をとらせる。そんな方は身近にいますか?いたとしても“あんたが組織悪なんだ”と言えない社会に生きてる“私”がいる。

生活がかかっているから、「我慢」でしょ?  弱者はつらいね。

人間皆、平等と・・・違いは何か?立場や肩書きではなく、責任感の違いにならなくてはいけないのだろう。強者は弱者を守る責任ですよ。

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2008年10月06日

三国志ー孔明、五丈原に散るー

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「我ら三人、姓は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、願わくば同年、同月、同日に死せん事を」と誓った、劉備玄徳、関羽、張飛は想い叶わず、関羽は敵の策にはまり、父子ともに討ち取られ、張飛はその後、荒くれ男に戻ってしまい己の臣下に寝首をかかれ、劉備は病いにより、それぞれに散った。

劉備の三顧の礼により、軍師となった孔明は「天下3分の計」を旗印に劉備亡き後も、夢を果たさんと孤軍奮闘で戦いを展開するのであった。84話の「三国志演義」も77話で諸葛亮孔明が五丈原において司馬懿との戦いの最中、志半ばで亡くなる。年齢は54歳のときであった。

この時の孔明の心情を後に、「星落秋風五丈原」として歌われている。

今日は、その歌詞をここに留めておきたい。


  祁山(きざん)悲秋の 風更(ふ)けて
  陣雲(じんうん)暗し 五丈原
  零露(れいろ)の文(あや)は 繁くして
  草枯れ馬は 肥ゆれども
  蜀軍(しょくぐん)の旗 光無く
  鼓角(こかく)の音も 今しづか
  丞相病 あつかりき
  丞相病 あつかりき

  夢寐(むび)に忘れぬ 君王(くんのう)の
  いまわの御(み)こと 畏(かしこ)みて
  心を焦がし 身をつくす
  暴露(ばくろ)のつとめ 幾とせか
  今落葉(らくよう)の 雨の音
  大樹ひとたび 倒れなば
  漢室(かんしつ)の運(うん) はたいかに
  丞相(じょうしょう)病 あつかりき

  四海(しかい)の波瀾(はらん) 收(おさ)まらで
  民は苦み 天は泣き
  いつかは見なん 太平の
  心のどけき 春の夢
  群雄(ぐんゆう)立ちて ことごとく
  中原(ちゅうげん)鹿を 爭(あらそ)ふも
  たれか王者の 師を學ぶ
  丞相(じょうしょう)病 あつかりき

  嗚呼南陽の 舊草廬(きゅうそうろ)
  二十余年の いにしえの
  夢はた いかに 安(やす)かりし
  光を包み 香(か)をかくし
  隴畝(ろうほ)に民と 交われば
  王佐(おうさ)の才に 富める身も
  ただ一曲の 梁父吟(りょうほぎん)
  丞相(じょうしょう)病 あつかりき

  成否をたれか あげつらふ
  一死(いっし)尽くしし 身の誠
  仰げば銀河 影冴(さ)えて
  無数の星斗 光濃し
  照すやいなや 英雄の
  苦心孤(こ)忠(ちゅう)の 胸ひとつ
  其壮烈に 感じては
  鬼神も哭(な)かむ 秋の風

  嗚呼五丈原 秋の夜半(よわ)
  あらしは叫び 露(つゆ)は泣き
  銀漢(ぎんかん)清く 星高く
  神祕の色に つつまれて
  天地微(かす)かに 光るとき
  無量の思(おもい) 齎(もた)らして
  千載(せんざい)の末 今も尚(なお)
  名はかんばしき 諸葛亮
  名はかんばしき 諸葛亮

大軍師たる孔明亡き後、孔明の立場を争う内紛が起こる。どの団体もリーダーがいる時はおとなしくしているが、亡くなると“我見”が出てくる。何代か後には衰退していくことは歴史をみても明らかではないだろうか?

人のこころは見えないがゆえに、言葉に騙される。権威(肩書き)に騙される。もう、そんなリーダーはいらないでしょ?

民のために身を粉に働くリーダーが本物。次元は違うが世の男性の中に、家族に対して「俺が働いて、食わしてやってる」という方は少し考えたほうがいいと思いますよ。だって、主婦の仕事を外注に頼んだらいくら支払わなくてはいけないと思います?

それぞれが役務を分担してるのであって、どっちが上とか、下とか言ってると時代に取り残されますから・・・

そうです、お互いに感謝するこころを忘れないようにいきたい。

そんな平和な日がきたら、孔明の志も成就するのかもしれない。

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2008年10月04日

三国志ー泣いて馬謖を斬るー

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三国志もいよいよ終盤になってきました。71話だけでも時間のある方はGyaoで観てくださいね。泣きますよ、本当に。

孔明が蜀にとって大事なところの守りを馬謖自身の要望でその任に着かせるのだがこれが失敗する。副将は孔明の言いつけを守ろうと進言するが、馬謖は聞かない。結果、司馬懿の策略に敗れる。以後、数年に亘り司馬懿との戦いに苦慮させられるのである。

ある時、大軍を率い司馬懿が孔明のいる城に攻め寄せる。孔明の陣は2千名。そこで孔明は苦しまぎれの「空城の計」により難を逃れるのであった。

「空城の計」とは? 何をしたのか?

琴を弾いたのである。何故、琴で何が起きたのか?

司馬懿はいまこそ攻める時との周囲の言葉に対し、攻めるのを遮るのである。

「あの琴の音には大波が岸に打ち寄せ、烈風が雲を巻く響きがある。まるで、雄兵100万を擁した落ち着きと威風だ。」
「あの音はせせらぎを静かに流れる清水のようだ。心が乱れていては出せぬ音色だ。諸葛亮には廟算があるとみえる。」

臣下が「琴の音でもそんなに諸葛亮の心が読めるものですか?」の問いかけに・・・

「心が乱れれば音は荒れ、心が鎮まれば音は澄む。心が急いては音を誤り、安心に包まれれば豊かに響く。あの音に諸葛亮の全てが顕われている。」と司馬懿。

諸葛亮は慎重な男だ、博打のような策はとらぬ。今、城門を開けているのは伏兵がいるからだ。しかも諸葛亮の音色に殺気がある。何か罠が仕掛けてあるに違いないと軍を撤退させるのである。

一流は一流を知る。といいますが、そんな場面じゃないかと思い紹介しました。

琴の音色だけではなく、心の顕われは私たちの生活全般にも顕われますよね?顔の相も、振舞いも、言動もこのブログにもですね。心急かずに穏やかに心乱れずにいきたいものだ。

そこで、有名な孔明が「泣いて馬謖を斬る」場面になりますが、馬謖は元々劉備からは“口だけの男だ、気を付けるように”と言われていた人物であるが、孔明が軍師として育てた人物でもある。

軍の規律を守るためには、自分の育てた者を処刑せざるを得ないことに「泣いて馬謖を斬った」のかと私は思っていたところがあったのだが、孔明は違ったのである。

普通、登用が誤ったとはいえ、部下自身が名乗り出ての取り返しのつかない失敗があったらどうします?“あいつが俺の言うことを聞かなかったからこうなった”と言いません? 言いますよね自身を守らんがために。

しかし、孔明は自分を責め、自分を律するんです。

「情けに負けて無能な者を登用し、街亭を失ったのはすべてこの孔明が罪だ。国を治める者はすべからく自らを律し、遵法に努めてこそ信が得られる。この敗戦の責は私にある。私を罰せねば国法が乱れるもとになろう」と。

また「以後、たとえそれが誰であろうと官の上下にこだわらず、私の不明を許さず、私の過ちを糾してくれ。その厳しさが中原の克復ばかりか大漢の起業を成する力になる」と言われる。


どうです?三国志って勉強になると思いません?世の中のリーダーは忙しいから観る時間も読む時間もないのだろうが、孔明を見習って“民のため”に誰がなんと言おうが生ききっていただいたいと思うしそういう人物が出てこないと日本は心配じゃありませんか?

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2008年09月23日

三国志ー孟獲の服従2−

“過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる”

しかし、孔明は他人をも変えてしまったのであろうか?今日も三国志のドラマから検証していきたいと思う。

孟獲は南中の大王、しかし、実態は愚連隊の親分って感じですかね?

孟獲「両川も元は他人の地、それを不当に奪いなお飽き足らずに南方に兵を送る。この先祖代々の地を黙って渡せると思うか?」

孔明「悪党にも三分の理か?古来、人心を得ずに天下に立ったものはおらぬ。かつて両川には干戈が絶えず、先帝が蜀を統一するまでに民百姓は苦しんだ」

「だがお前は、今も官吏を殺め領民を苦しめ、国境を幾度も脅かした。私たちはお前から領民と西川の平和を守るために来たのだ」

「この豊かな地と民を蹂躙するお前たちを天は決して許さぬ。これ以上刃向えば南蛮の民もお前を見捨てるだろう」

ここが、孟獲を捕らえた6度目の場面です。孔明が説得するも、それでも俺はお前に負けてない、諦めきれないもう一度戦わせてくれと懇願する。

孔明は、又、戦えば新たに兵が傷つき、家族が嘆き悲しむんだと言いながら、孟獲を解き放つのであった。そして、7度目の戦いにも孟獲は敗れついに服従する。ある意味凄いですよね、7度も気持ちが変わらず戦いに臨むって・・さすがの孟獲も「心を攻められ」とうとう変わる。

孟獲「南中の軍民、家畜、土地を記した台帳を献上します。丞相の恩威のもと、南蛮の者共々、赤心を永遠に誓います」

孔明「私はこの台帳を受け取らぬ。孟獲と領民に返却する。孟獲は末長く、南王としてこの地を統治するがよい」

孟獲「だが丞相、私は大罪を犯した者。命を助けてくださっただけでもその大恩に報いきれません。どなたか別の方にお申し付けを」

孔明「私は7たび捕らえて、7たび放した。余人に代えられぬ、南王は孟獲だ。天子の願いに応え、民百姓を慈しみ永遠の平安を築くがよい」

そして、孟獲は心血を注いで南中を治めることを誓うのである。

孔明は、皆の前で自身の心中をこう述べる。

「諸葛亮、勅命を奉じて南征に赴き激戦を重ねること幾度かここに至る。行軍の苦難のなか、南中の領民の扶け数知れず、今、南蛮王の孟獲迷いより覚め、大儀によりて領民を慈しむを知り、我が心深く安堵す」

いかがですか、孔明の采配。本来であれば“無血革命”が理想なんでしょうが、時は乱世(この時代に生まれなくてよかった?)。天下を平定させるには避けて通れぬ道だったのかもしれない。しかし、孔明の目指すものは常に“民、百姓”の為ではなかったか?リーダーとはこうあらねばならないと、孔明から学ぶことは現在でも必要な気がするのは、私一人ではないでしょう。

日本のリーダー、いや、家庭という組織を含めた組織のリーダーの一人一人が「物質至上主義」のハードパワーの時代から「心こそ大切」というソフトパワーの時代に移行しつつあることを認識していくことが肝要なのではないだろうか?

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2008年09月22日

三国志ー孟獲の服従ー

180px-MengHuo.jpg孔明の劉備死後、反乱を起こした南蛮王の孟獲は武勇一辺倒で、知略を駆使した戦いにはめっぽう弱く、南蛮を平定する為に攻めてきた孔明と蜀軍の敵ではなく、瞬く間に捕らわれる。

孔明は降伏を勧告をするが、意地っ張りな性格の上「戦って敗れた」という実感がなかった為、耳を貸さず反論するばかり。

そこで、孔明は馬謖の考え方を聞きながら、孟獲をいかにするかを決めていく。

馬謖「孟獲を捕らえるのは容易ですが、帰順させることは難しいでしょう」

  「こらしめても、いつかまた、裏切って反乱を起こすでしょう。それの繰り返しになります」

孔明「どうすればよいのか、馬謖の考えは?」

馬謖「心を攻めるを上となし、城を攻めるを下とします。力で抑える限り、服従はしません。奴を心の底から帰順させてはじめて丞相の北伐もなるというものです。」

孔明「心を攻める・・・。うまいことを言うな。馬謖もわかってきたな」

三国志65話にこのような会話がでてきます。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という乱世にあって、孔明はただ、権力を欲しいがままにすることが目的ではないことが、ここでも理解できるのではないだろうか?

孔明は「心服させなければ真の平定ならず」という信念に基づき、孟獲を捕らえては解き放つ。以後、孟獲はさまざまな手段で蜀軍と戦う。南蛮特有の風土を武器に戦い、近隣の大王(将軍のようなもの)にも援軍を求め10万の兵士を集めて戦うが、ことごとく孔明に敗北するのである。

そのたび孔明の前に引き出される。孔明は気のすむまで戦わせようと考え、彼を捕える度に解き放つ。だが、流石の孟獲も七度目の敗北で観念するのである。

ゴツ突骨率いる藤甲軍が孔明の策略で全員焼き殺され、孟獲も捕らわれた。

一族と共に与えられた酒を飲みながら「孔明には勝てん。仲間もおらず戦う事も出来ん。人生で最後の酒だ」と死を覚悟していた。

しかし、蜀の兵が「孔明様は藤甲軍を皆殺しにしたことを悔いて、今あなた方に会う事に負い目に感じています。今日の所はお引取りくださり、今一度、気持ちよく戦ってくださいとの事です」という孔明の言葉を告げた。

それを聞いた孟獲はハラハラと涙を流し「七度負けて、七度許すという話は聞いたことが無い。自分が愚かだった。今までの罪を許して頂きたい」と孔明の前にまかり出て「南蛮はこれ以後、二度と蜀には背きません」と誓いを立てた。これが世にいう『七縦七禽』である。

やがて225年秋9月に、諸葛亮が滇池に到達した。その頃は南中四郡は平定された。現地の住民の老若男女を問わずに、土豪の焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李氏の支配下に置かれた。

そこで諸葛亮はその中に勇敢な若者を抜擢した。その中から建寧郡の爨習、朱提郡の孟琰らが孟獲の推挙によって官吏として召し出されたという。後に孟獲は功績を立てて御史中丞(官吏に対する監察と弾劾の役職)まで昇進した。さらに、孟獲は李恢・爨習と共に建寧郡の名士として称えられている。

以後、孟獲は孔明を『温情の徳』として、孔明を『慈父』と呼び祭った。祭祀は孔明死後も続けられたという。

「心を攻める」って憎いですよね。孔明にとっても曹丕との戦いもあるのに、孟獲の反乱軍を何度も解き放つ。そして、敵をも味方にしてしまうのは、孔明の「知略」いや、「人格」「人間力」なのかもしれない。

孔明の「政治」はまだまだあります。今後、また、紹介します。

日本の政治家もお願いしますよ。日本平定のために!!

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2008年09月20日

三国志ー勝敗の分岐点ー

「三国志演義」は、英雄たちの物語ですよね。

どのように天下を取るのか、治めるのか。こんなことは私の日常では、多分経験できない。

私たちはよく、抜きんでた人を「あの人は特別」「そういう星の下に生まれてきた人」だからって言いません?

しかし、天下を窺がおうっていう英雄も生まれながらにそうだったわけじゃないんですね。

曹操も、孫権も、劉備もその時代に生まれ、身一つで乱世に乗り出し、あまたの戦を経て、だんだん勢力を拡大していく。その過程で彼らはさまざまな選択を迫られ、自分、もしくは軍師とともに決めながら、道を切り開いていったのですね。

たとえば、誰と戦うか?あるいは戦わないか?  戦うとしたら、いつ戦うか? 選択の良し悪しで勝ち負けがきまるし、天下が近づずくか遠のくのかが決まる。

ここに「彼らの勝敗分岐点」ともいうべき決定的な瞬間がひそんでいたんです。

私たちも絶えず、一瞬、一瞬で選択を迫られ、自分の道を決めていますね?

身近なことでは、朝起きて、今日は仕事に行こうか休もうか、精一杯頑張ろうか手を抜こうか、この壁を破ろうか避けて逃げようか、等々。他の誰でもなく自分で自分の道を決めていますよね?

ものごと「道理」ですから、こころに「敗北の因」があれば、「敗北の結果」ですね。勝負のほとんどは「こころの強弱」で決まるのかもしれない。

逃げて失敗したときは人のせいやら、環境のせいにしながら・・・ 生きている人がなんと多いことか。

ちょっと横道にそれましたか。

lb.jpg劉備玄徳はどうだったのでしょうか。彼は、若い頃に筵や草鞋を売って生計を立てていた貧しい庶民から身を起こして、関羽・張飛とともに天下取りの戦いを起こしたが長く不遇の時を過ごす。

個人的なイメージなんですが、信長がいて秀吉がいて不遇な時代を過ごした家康とダブるのは私だけでしょうか?

劉備は50歳近くになった時に、ライバルの曹操は中国を、孫権は江東をそれぞれ支配していたが、劉備だけは流浪の日々を続けていた。
そんな時、司馬徽に出会い、「伏龍、鳳雛を、一人でいい、手に入れなさい。そうすれば天下は将軍のもの。その伏龍は、800年の周王朝を興した太公望・呂尚、400年の漢王朝を興した張良に匹敵する人物です」と言われる。



伏龍とは諸葛亮孔明のこと。


そこで有名な「三顧の礼」となるのです。


劉備はどちらかといえば親分肌で、人を惹きつける魅力はあったのだが、天下取りのビジョンを描くことができない、弱点をいえば、戦略の不在。場当たり的に広い中国を動き回っていただけだったみたいです。

そこに諸葛亮孔明を得て、ようやくライバルの曹操、孫権と並ぶことができた。

孔明に言われたことは「いまの中国の情勢をいえば、北は曹操、南は孫権が割拠しております。将軍が天下を統一されたいのなら、まず荊州、さらに益州を取って根拠地をつくることです。そして天下を三分して、中原に打ってでるのです。将軍に、そのお心はありますか?」と示されたのが「天下三分の計」です。


名軍師を得たことが、劉備の勝敗分岐点だった。


はからずも、その大事な荊州を失って関羽は命をおとしてしまうのだが・・・

    ・
    ・
    ・

時は今、日本も分岐点ではないだろうか?選挙の勝敗いかんによっては総理を麻生さんにするのか?はたまた小沢さんにするのか?

単なる「風」では選べないだろう。次元は違うが“虎退治”の姫は如何なるものかじゃないけど、マスコミに踊らされて間違った道を選択しないように、よくよく考えなければいけないと思うし、やり直しをするまでの時間もないし、しかも、選挙をやる度に膨大の費用がかかってしまうのだから・・・

ごめんなさい、姫が悪いとかじゃなく、パフォーマンスだけでは民衆は助けてもらえないことを知らなくてはいけないし、選んではいけないんです。それが、どの候補者でも、どこの党であっても。でしょ?

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2008年09月18日

三国志ー関羽の死ー

前にも書きましたが、神戸近郊の「三国志」ファンの人にお知らせです。もう知ってるという方は飛ばしてくださいね。

神戸新聞社主催で「大三国志展」が神戸市中央区の関西国際文化センター(078-231-2420)というところで、10月5日まで開催されていますよ。

三国志の名場面の絵画や発掘された武器など計約二百点を展示。日本の国宝にあたる中国の「国家一級文物」も多く、約千八百年前の世界を堪能できるそうなので興味のある方は是非、行かれてみてはいかがでしょうか?

やはり、三国志は人気があるようで、9月14日には来館者が10万人を突破したようだ。

Gyaoの無料動画で三国志を観てるのですが、毎日更新されています。ちょっと観ないと追いつけなくて・・

一部は7月15日から始まり、今は第四部の65話まで放映されています。

私は昨夜、60話まで観ましたが、とうとう関羽が、曹操が死んでしまうんです。

「我ら天に誓、我ら生まれた日は違えども、死すときは同じ日同じ時を願わん」との桃園の誓いも叶わず、劉備、張飛より早く亡くなってしまう。

その場面、うまくお伝えすることが出来ないことが残念ですが、よかったらご自分でご覧になって下さい。

男が男に惚れ、何があろうと兄弟(劉備・張飛)も裏切らない、兄弟の為には命も惜しまない、敵(曹操)の男さえ惚れてしまうほどの関羽。

彼の亡きあと、孫権は劉備の怒りの矛先をかわすため、曹操に関羽の首を送るのだが、曹操は孫権の策略を見破り、関羽を手厚く弔うほど関羽を恐れもし、認めてもいたのであった。

曹操は「赤壁の戦い」に敗れた後、関羽の「義」に助けられなければあの時点で死んでいたのだろうから。

2595827477.jpg関羽の人柄を語るうえで「義」は忘れてはなりません。義とは「義理人情」「義を見てせざるは勇なきなり」といわれているように義侠心のことです。劉備は「仁」に、関羽は「義」に最も重きをおいていたと言われ、その武勇、曹操が義理堅いと評した事から、後世の人間が神格化し関帝(関聖帝君・関帝聖君)とし、47人目の神とした。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。

もちろん、横浜の中華街にも関帝廟はあり、多くの方が訪れますが、商売の神様になっていたのはあまり知られてはいないですね。

この戦国時代の英雄でもある、関羽と曹操は亡くなりましたが、これからのドラマは劉備玄徳と諸葛孔明を軸に展開していくのであろうか?ますます楽しみである。

また、お伝えします。

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2008年09月03日

三国志ー周瑜死すー

zyu.jpg三国志に登場する周瑜(しゅうゆ)は中国、後漢末の武将で、字を公瑾と言い、「美周朗」のあだ名の通り、眉目秀麗な英雄である。(写真は三国志演義より引用)

呉の孫策・孫権の軍師・大都督。軍師というよりは武将のイメージが感じられる。また音楽に精通しており、酔っぱらって居たときでもその音の間違いを聞き逃さなかったほどといわれている。
そのため当時の人々は「曲に間違いがあると、周郎が振り返る」という歌をつくって囃したという。

また、曹操や劉備は周瑜の才能を恐れ、曹操は家臣の蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようと図ったほどである。

史実の周瑜は知略・武略に優れる名将であり、味方からは慕われ、敵からは恐れられた英雄だった。

味方から慕われたというエピソードとして、周瑜は寛大で人の心を掴むことが得意だった。しかし宿将程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈してへりくだり続けたので、その謙譲さに程普もとうとう感服し、尊重するようになったという。

先にも伝えましたが、負ければ「天下二分の計」「天下三分の計」どころか曹操の天下になっていたであろう「赤壁の戦い」においては、呉軍を指揮し、劉備と共同しつつもほぼ単独で約100万の曹操軍を打ち破ったのですが、孔明の軍師としての働きに対し終止ライバル視しながら、いくどとなく孔明を殺すことに策を考え、手を打つのだがことごとく見透かされてしまう。

お互い敵から恐れられ、才能を認めて合っていた、孫権と劉備の「軍師」

しかし彼ほどの知略をもってしても、孔明には勝てなかった。

周瑜は「自分の思い」の曲をつくっていた。ある時戦場から逃げ帰る途中に自分の曲が流れてくる。弾いているのは孔明。

その際にも、彼は感嘆する。「自分のこころを分かっているのは孔明だけだ」と・・

一流の人しか、一流が分からないのでしょう。

以前、吉川英治の宮本武蔵のなかに、確かこんなくだりがあったことを思い出した。

ある小枝を一流の人物が切る。その切り口をみた武蔵は「ただ者ではない」と見抜く。

いかなる世界も極めた人のみがわかる「何か」があるのだろう。

周瑜は、この先劉備と孔明は呉にとって災いになる存在として、戦に臨むが最後の最後まで孔明の策の前に負け、倒れる。

臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、

「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」

と血を吐いて憤死するという哀れな最期をむかえる。

齢、36の若さであった。

周瑜の描いた「天下二分の計」は孔明の前に打ち破られ、「天下三分の計」に向かってドラマは展開していく。

では、また発信します。


三国志ファンにお知らせです。9月5日〜10月5日まで関西国際文化センターで「大三国志展」を開催するそうです。大阪近郊にお住まいでしたら、1度行かれてみてはいかがでしょうか。ちなみに私は東京で開催した時に行きました。普段は見ることのできない展示物も沢山ありましたよ。

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posted by Koumei at 13:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月01日

三国志ー赤壁の戦いー

いよいよ、今日より9月。ブログの記事も様々なことを書かせていただきました。まだ、1ヶ月余りですが新聞を読むにも、物を見るにも、テレビを観るにも意識が変わりましたね。
最近はコメントもいただくこともあり、とても励みになります。
今後も、様々なジャンルにわたり記事を発信していきますので宜しくお願いします。


このところ、「三国志」をみるペースが落ちてきて、Gyaoの放映はすでに半分は過ぎているかもしれません(追いつけない〜)。

私はいま、曹操と孫権・劉備連合軍が「赤壁の戦い」をし、曹操が「連環の計」により大敗をして逃げ堕ちていくところまでです。

ドラマでは曹操100万の軍勢と呉の孫権は降伏するか戦うか迷う。ほとんどが降伏を勧めるのだが、魯粛が主戦論だったため客人としていた孔明が魯粛とともに孫権を説得し、曹操と戦う意思を決める。

ここから孫策の義兄弟である周瑜とともに打倒曹操の作戦が繰り広げられるのだが、この周瑜は玄徳と孔明が自分より優れていることに将来の不安を覚え、何度も殺そうと試みる。(結構、執念深い)

ある時、周瑜は孔明を亡き者にしようと策を講じる。

周瑜「呉には矢が足りない、そこで10万本の矢をなんとか調達できないだろうか?」

孔明「期間はどれぐらいで?」

周瑜「10日間では?」

孔明「3日で調達しましょう」

通常10万本の矢を作る(?)には30日間でも無理、それを承知で周瑜は10日といい、ところが、孔明の返事が常識では考えられない3日と返ってきたので、周瑜はしてやったりと誓文を書かす。

2日が経ち、何も行動を起こさない孔明に、魯粛は無理と分かっていたので、劉備の元に逃げるよう話しをもちかけるのだが、孔明はこの日に霧がかかることを分かっていて、わら人形をつけた船20艘を敵陣に向ける。曹操は報告を受け、矢を放ち追い返せと命令する(孔明の思惑通り)。

霧が晴れるまでが勝負と孔明は敵陣近くまでより、1艘5~6千の矢をわら人形に受け、1夜にして10万本の矢を調達したのであった。

この件で周瑜はますます孔明を殺すことに思いを強める。しかし、孔明がいなければ曹操100万の軍勢には到底勝てないこともわかっていた。

歴史的な「赤壁の戦い」においても、周瑜と孔明は水軍の戦いで火をもって臨むことでは一致する。

曹操軍の船同士を鎖でつなぐという「連環の計」を成功させたのだが、問題は風向き。東南の風が吹かないと火を用いても自分たちにも被害がでてしまう。この季節には絶対吹かないと周瑜は嘆き倒れる。

そこで孔明は、周瑜に「東南の風を吹かせましょう」と進言し、祭壇を作らせ祈祷を始める。

すると、吹くはずのない東南の風が吹くんです。

周瑜は孔明の凄さに驚くとともに、即座に孔明を“殺せ”と命令するが、もとより存知の孔明は準備しておいた船に乗り劉備のもとに帰り、軍師として采配をとり、連合軍の勝利をつかむ。

この2つは孔明の活躍として「三国志演義」にでてくるのだが、正史「三国志」にはないそうだ。

しかし、孔明の「天の利」「地の利」「人の利」を使いこなし、矢を取りに行った時も霧が出ることや、東南の風を吹かすことも祈祷ではなく自然を察知する能力に長けていた彼としてはあり得るかもしれないエピソードではないだろうか?

ドラマをみていると、人には「天の運」があることを感じざるを得ない。というか、役目が終わらない限り命は尽きないのだろう。

“風林火山”ではないが、人にはそれぞれ“今、動く時”“今、動かない時”というのがあるんでしょうね。そして、人生のドラマを演じていく。

晴れの日もあったり、嵐の日もあったりで・・・

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posted by Koumei at 13:59| Comment(3) | TrackBack(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月20日

三国志ー桃園の誓いー

300px-Peach_garden_ceremony.jpg

(挿絵はウィキペディアより引用)

パソコン
のGyao無料動画で「三国志」を放映されているのは先にもお伝えしましたが、壮大なスケールで描かれなんと制作費は100億円というからすごい力の入れようで登場する人数も、馬も半端じゃないですね。広大な中国の大地ですからやはり絵になる。

このドラマはまず桃園の誓いの場面から始まっていきます。

桃園の誓いは、桃園結義ともいわれ、『三国志演義』の序盤に登場する劉備・関羽・張飛の3人が、宴会にて義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行ったという逸話のことなんです。

なぜ3人が出会い宴会になったか?

これはエピソードですがある時、劉備が黄巾軍対策の義兵を募集している高札の前でがため息をついていると、張飛が来て「大の男が世のために働かず、ため息をつくとは何事だ」と声をかけてきた。
劉備が自分がため息をついたのは己れの無力に気付いたためだと言うと、張飛はそれなら自分と一緒に立ち上がろうと酒に誘う。
訪れた酒場で彼らは、赤ら顔と見事な髯を持つ一人の偉丈夫、すなわち関羽と出会い意気投合したのがきっかけなんです。

これは正史の『三国志』にない逸話であって創作上の話であるとされているのですが、劉備が二人に兄弟のような恩愛をかけ、関羽・張飛は常に劉備の左右に侍して護り、蜀漢建国に際して大いに功績があったという史実に基づいて作られた逸話である事は間違いないと言われています。

そこで彼らは「我ら三人、姓は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、願わくば同年、同月、同日に死せん事を」という有名な誓いの言葉を後世に残したんです。

世の中様々な関係があります。親と子、血を分けた兄弟、友人、上司と部下、皆さんのそれぞれの関係はどうですか?

あとまだありました。大事な師匠と弟子の関係。

動物には親子、兄弟はありますが、人間だけが師匠と弟子があるんですって。その道のエキスパートになるためにはどの世界にも「師匠」がいる。例えば吉田松陰(師匠)と高杉晋作(弟子)のように。

関羽、張飛は兄弟と言ってるけど、師匠と弟子ともいえるのではないかと私は感じてますが・・

そして、国家安泰のために戦う人々のドラマが展開されていきます。今現在は全体の3分の1ぐらいのところですかね。

劉備がやっと諸葛孔明とであったところも見れますから歴史物が好きな方はどうぞ。
そうでない方も単なる国盗り物語ではないのでご覧になったら為になると思います。(押し売りじゃありませんから)

「三国志」についてはまた発信していきます。

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posted by Koumei at 09:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする



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